レイバーペインズを読んでくださっている皆さんなら、日本の労働問題の最たるものが「長時間労働」、「過労死(自殺)」であることは重々承知だろう。にもかかわらず、ことあるごとに、労働法は時代遅れだとして、労働法の規制緩和をどんどん推し進めてきたのが他ならぬ現在の安倍政権なのだが、その安倍政権がなぜか去年から、残業時間の「上限」を法律で定めるべきだと主張し始めた。
このことは、政府がこれまでのバリバリの「規制緩和」から、「規制強化」路線へ180度方針転換したのか、とずいぶん騒がれたが、疑い深い私は、これには裏があるにちがいない、という気持ちが拭い去れなかった(このことは、2016年12月25日のLabor Painsでも述べている)。安倍首相は現在の財界トップである榊原定征(さかきばら さだゆき)経団連会長と親密な関係であり、自らの外遊にも連れていき、世界各国で日本企業を首相みずからが“トップセールス”するのだと自慢げに言っている。安倍首相が、自分の大切な「お友達」が多い経済界の締め付けを強めるようなことを本気でやるとはとても思えなかったのだ。
しかし、たとえ“パフォーマンス”だとしても、政府がリーダーシップを握って残業規制をやることになった背景のひとつには、まだ記憶に新しい電通の24歳の前途ある女性社員高橋まつりさんが過労自殺をした事件があると思われる(これについては、2016年10月23日のLabor Painsでも述べている)。長時間労働を「美徳」とする日本においても、この事件を正当化する声は、さすがに使用者側からも出なかった(ある大学教授が、事件直後に「100時間程度の残業で自殺するなんて、最近の若者は情けない」とツイッターでつぶやいたところ、大炎上して、彼は辞職に追い込まれた)。安倍総理自身も、今年の施政方針演説で、「一年あまり前、入社一年目の女性が、長時間労働による過酷な状況のなか自ら命を絶ちました。御冥福を改めてお祈りすると共に、二度と悲劇を繰り返さないとの強い決意で長時間労働の是正に取り組みます。」と述べている。
そしてもうひとつは、安倍政権が推進しようとしている「働き方改革」のなかに「女性の活躍」や「多様性(ダイバーシティ)」というスローガンが盛り込まれており、国際的にも、長時間労働をこれ以上放置しておくと、日本は時代錯誤な企業がまだまだ幅を利かせているといった悪い評判が広がることを懸念したということもあるかもしれない。
ということで、現在は、政府主導によって、現行の労働法には明記されていない残業時間の「上限時間」を明
記するということで話は固まっており、あとは、その上限時間を何時間にするべきか、という具体的な話を労使間で合意形成する状況となった。使用者側は、前述した安倍首相の「お友達」である経団連の榊原定征(さかきばら さだゆき)会長。そして、労働者側は、日本における最大の労働組合のナショナルセンター連合の神津里季生(こうづ りきお)会長である。ちなみに安倍首相は労働組合がお嫌いなようで、2年前国会で野党議員に対して「日教組(にっきょうそ)!」とヤジを飛ばして自民党の委員長に注意されたことがある。
さて、読者のみなさんは、具体的にどのくらいの上限時間が提案されていると想像するだろうか。その前に、まず、基本的な日本の労働時間制度についておさらいしておこう。日本の労働基準法32条には、「使用者は、労働者に、休憩時間を除き一週間について40時間を超えて、労働させてはならない。 さらに同条第2項には、「使用者は、一週間の各日については、労働者に、休憩時間を除き1日について8時間を超えて、労働させてはならない。 」と規定されている。つまり、「1日8時間・1週40時間」という法定労働時間。これが大原則である(この大原則だけ存在していれば、そもそも「過労死」は起こらないのだが…)。
ただし、労働基準法36条には、労使で合意が取れて協定(これを「三六(さぶろく)協定」と呼ぶ)を締結した場合に限って、「法定労働時間を延長し、又は休日に労働させることができる」と規定されている。これが残業を正当化させる根拠となっている。そして、厚生労働省は、1か月の残業時間の基準として「45時間」と設定してはいるが、これはあくまでも行政上の基準であるため法的な拘束力をもたないとされている。さらには、業務が繁忙であるなどの特別な事情がある場合には、三六協定に「特別条項」を付けることができて実質的に無制限に残業時間を定めることができる。これはたとえるならば、まさに「車からブレーキを取り外すことを法律が認めている」ような状態と言えるだろう。
ちなみに、電通の高橋まつりさんは、過労自殺する前の残業の平均時間が、一か月105時間に達していた。厚生労働省は、「過労死の危険度が高まる1か月の残業時間」を「過労死ライン」と名付けて、「1か月80時間」と設定している。
さあ、読者のみなさんにもう一度同じ質問である。今回、1か月あたりどのくらいの残業時間の上限が提案されているだろうか? 上限なしで法定労働時間のみ、つまり残業それ自体を違法にする? うん、それ理想だよね。ていうか、そもそも法定労働時間が大原則のはずだし、残業は「例外中の例外」であるはずだよね。でも、まあ、いきなり残業をなくすのも難しいし、一か月10時間くらい? いやいや20時間くらい? いや、それとも、厚生労働省の基準である「45時間」? いや~、やっぱり企業が求めるのは過労死ラインの「80時間」? いやいや、まさかね。過労死ラインまで許容したら、過労死予備軍が日本中でもっと増えてしまうではないか。しかも法律が過労死ラインを正当化するなんてこと、まさかないよね・・・・・・。
みなさん、いろいろ考えてくれたかな。さあ正解を言おう。正解は、「1カ月の上限100時間」である。・・・え?え? うそでしょ? と驚く読者のみなさんの顔が目に浮かぶ。でも、これが事実である。ゼロが一個多いわけではない。過労死ラインという恐ろしい名前のついた80時間すらはるかに飛び越えている。一か月105時間の残業で自ら命を絶った高橋まつりさんの水準とほぼ同じである。
一応ここには、「きわめて忙しい繁忙期のみ」という「但し書き」がついている。だが、この但し書きはほとんど意味をなさないだろう。「今はとても忙しいから・・・」と使用者が言ってしまえば、いつでも「繁忙期」になってしまうのが現実だ。なお、この記事を書いている3月21日現在、「1カ月の上限100時間」で労使双方のトップ榊原会長と神津会長は「合意」に達したと報道されており、この合意を受けて安倍首相は「労働基準法70年の中で歴史的な大改革だ」と称賛した。
ここではっきりしたことは、「ああ、やっぱり「出来レース」だったんだな」ということだ。一見、労使でガチンコでぶつかりあって交渉しているかのように見せかけながら、最終的には、「100時間」で合意に達する。そしてそれを首相が「よくやった。すばらしい」とほめて、メデタシメデタシ、でハッピーエンド、こういうシナリオだったのだ。
「連合」は確かに「大企業の優遇された労働者の集団」とか、「御用組合」、「労働貴族」などと批判をされることも多いが、それでも、腐っても労働組合であるならば、労働者を死に追いやるような提案はさすがにきっぱりと拒絶してくれるのではないか、と、私は最後まで期待を捨てないでいた。しかし、その期待は打ち破られてしまった。このニュースを、高橋まつりさんは天国でどんな気持ちで聞いているだろうか。
「しんぶん赤旗」の2017年2月4日の記事によると、経団連に属している主要な大企業の多くは、下表のように、現在も100時間近い残業をさせている。ちなみに、経団連の榊原定征(さかきばら さだゆき)会長が最高顧問を務める東レは「月100時間、年間900時間」の残業を定めている。こうしてみると、今回の上限100時間によって、従来の企業やり方が「そのままでいいですよ」と追認されることになるのだ。
しんぶん赤旗2017年2月4日(土)
結論。今回は、労働組合の完全敗北である。勝利したのは、従来通りの残業を正当化することができた経営者と、その経営者をバックアップする国(政府)だろう。彼らはとりあえず「長時間労働の是正に努力した」というアリバイを作ることまでできたのだ。残念ながら彼らの方が賢い。そして、真剣に交渉している「かのように」アリバイを作ることに手を貸した連合の罪は重いと言わざるを得ない。私自身、労働組合の執行委員長として、また一人の労働組合員として、今回の件は非常にくやしく、悲しい思いでいっぱいである。日本から「過労死」という言葉が消滅する日、そんな日がまた遠ざかったような気がしてならない。この国は、いったい何人の労働者が命を失ったら目が覚めるのだろうか。
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