中曽根康弘元首相が2019年11月29日、101歳で亡くなった。1971年生まれの筆者にとって、中曽根氏は良くも悪くも鮮明に記憶に残る総理大臣の一人である。日本の戦後の総理大臣は概して「調整役」的存在に徹し、カリスマ性が求められてこなかったなか、中曽根氏はもしかしたら、初めてカリスマを志向した総理大臣だったかもしれない。“ロン・ヤス関係”と呼ばれた、アメリカのレーガン元大統領との“日米蜜月関係”の構築は、日本の「対米従属化」をいっそう加速させたといえるかもしれない。だが、当時中学生~高校生の子どもだった筆者の目には、初めて日本の首相が、アメリカと“対等に”そして“フレンドリーに”交渉する姿を見た気がした。それは単純に、彼の身長が178センチとこれまでの総理大臣の中では群を抜いて高く、アメリカ大統領と並んだときに引けをとらなかったという視覚的な印象もあるだろう。
彼は思想的には真正の「タカ派」である。アメリカとの蜜月関係を軸としながら、国内向けには、アメリカに「押し付けられた」日本国憲法を一刻も早く廃止し、自主憲法を作るべきと主張し続けた。
だがその一方で、中曽根氏には「政界の風見鶏」というあだ名があるくらい、その場その場の空気を読み取り、少しでも不利になると感じたらさっと立場を変えることで有名であった。たとえば、靖国神社への公式参拝をしたことで中国や韓国から激しい非難を受けたら、翌年からはぱったりと参拝を止めた。日中関係の改善にも熱心であった。なお、中曽根氏にはロッキード・グラマン事件、リクルート事件など大型の疑獄事件で絶えず関与が取りざたされ、東京地検特捜部も長い間標的にしてきたが、中曽根氏は、事件の捜査の先に名前が出ても、矛先を向けられても、決して塀の上から落ちることなく、101歳で亡くなるまで塀の上を歩き通した。つまり、清濁併せ吞みながら、“しぶとく”生き残ってきた政治家である。
さて、この中曽根氏、日本の労働組合運動に甚大な影響を与えた張本人である。昭和62年(1987年)4月1日午前0時、「日本国有鉄道」(国鉄)は明治5年(1872年)の開業以来、115年にわたった長い歴史の幕を閉じた。その日、鉄道発祥の地である東京の汐留貨物駅で行われた「SL汽笛吹鳴式」では、戦前に製造されたC56型蒸気機関車が、まるで別れを悲しむかのように汽笛を鳴らし、詰めかけた鉄道ファンは国鉄との別れに涙するとともに、新たに発足した民間鉄道「JR」の誕生を迎えた。昭和62年は筆者が奈良で高校生であった時期だが、「国鉄奈良駅」という看板が取り外され、「JR奈良駅」に新しく付け替えられた瞬間を今でも覚えている。最初はJRという響きに違和感があったが、いつの間にか慣れてしまっていた。
国鉄の分割民営化、これを強力に推し進めたのが中曽根氏であった。国鉄関係者のみならず、政治家、官僚、財界人を巻きこみ、友情、憎悪、連帯、打算、裏切り、とあらゆる感情が入り混じった壮絶な人間ドラマが日本列島全体で繰り広げられた。
中曽根氏は、日本の経済を国際化、効率化の流れにスムーズに乗せていこうと、経済界の重鎮とタッグを組んで、民営化、規制緩和化に向け邁進していた。そんな中曽根氏にとって、日本で最も強力であった国鉄の労働組合は「目の上のたんこぶ」であり、真っ先に壊滅させなければならないターゲットであった。
戦後の日本は多くの労働組合が誕生したが、中でも最大規模を誇っていたのは「国鉄労働組合」(国労)であった。国労は最盛期には約50万人以上の組合員を擁し、「日本労働組合総評議会」(総評)の中核組織として、当時の「社会党」の支持基盤となっていた。
実は国鉄は昭和39年から赤字だったが、しばらくの間繰越利益でしのいでいた。しかし昭和42年には繰越利益をも食いつぶし、公共企業体としては最悪の財務状態に陥ってしまった。そこで国鉄当局は「5万人の合理化計画」に乗り出した。国鉄の機関車は機関士と機関助士の二人が乗務していたが、これを機関士一人だけの乗務に切り替え、人員削減しようとした。これに対して、国労や「国鉄動力車労働組合」(動労)が猛反発し、ストラ
イキに突入。スト解除の見返りとして一人乗務問題の先送りと、「現場協議制度の確立」を勝ち取った。
しかし、その後昭和44年に就任した磯崎叡(いそざき さとし)国鉄総裁は「生産性向上運動」(通称・マル生)と呼ばれる、管理職への研修制度を作った。だがこの実態は、職員の「労組脱退」を促すためのものだった。マル生の効果は絶大で、昭和46年1月ごろから国労・動労合わせて1ヵ月平均で3000~5000人もの脱退者が続出、労組に大きな打撃を与えた。
ここでとどめを刺すように、中曽根氏が登場した。昭和55年発足の鈴木善幸(すずき ぜんこう)内閣で行政管理庁長官に就任した中曽根氏は、国鉄を分割し民営化することで労組を分断し、弱体化させることを決意した。当時は国労だけで20名程度の代議士を当選させるだけの票を持っていたが、これを潰すことができれば、社会党は壊滅し戦後長らく続いてきた「55年体制」を終息することができると考えたのである。中曽根氏は「メザシの土光さん」(メザシという安い魚を毎日食べて質素な暮らしをしていたことを意味する)と呼ばれ親しまれていた土光敏夫(どこう としお)・経団連名誉会長をトップにした「第2次臨時行政調査会」を発足させ、国鉄の分割・民営化の論議が本格的にスタートした。
組合側も変化が起こっていた。国鉄の組合の中でも、最も過激派とされていた動労が、国鉄当局との協調路線に転じた。当時動労の執行委員長であった松崎明(まつざき あきら)氏が「このままでは国鉄の将来はない」と判断しての判断であった。こうした松崎氏の姿勢は、彼が在籍した「革マル派」を温存するための「偽装」ではないかといわれている。このように、国鉄内の労働組合は、労使協調を受け入れるか否かで内部紛争が激化し、目に見えて弱体化していったのである。こうした組合内の「内ゲバ」による自滅の姿は、まさしく中曽根氏の「思うつぼ」であっただろう。結局、国鉄は消滅。「JR」として6つの旅客会社と、貨物会社に分割・民営化されて現在に至る。
私の亡くなった母は、昭和12年生まれである。母のいとこは、三重県の田舎の街で高校を卒業した後、国鉄に就職した。母いわく、当時は、「国鉄だったら“親方日の丸”だから、つぶれることがなく、安心だ」と思われていたので、多くの親は自分の子どもを国鉄で働くように勧めたそうだ。中曽根氏は、国営で労働組合が強いから、数々の業務怠慢が起きる、民営化して能率化、効率化を追求するためには、向上心のない怠け者の労働者を守る労働組合を崩壊させなければならない、と考えていたようだが、民営化されたJRでは、勤務中にミスを犯した運転士・車掌・駅務員などを通常業務から外し懲罰的な指導を行う「日勤教育」が職員を萎縮させ、逆に2005年に107名が死亡したJR福知山線脱線事故の原因になったとの指摘もある。行き過ぎた能率化、効率化は、労働者とその家族の暮らしや健康を下降させ、引いては社会全体の不安につながるということを、中曽根氏は考えなかっただろうか。
2020年に日本で労働組合活動をする筆者にとって、国鉄と国労の歴史は、過去のものではない。組合活動にとって最大の敵は中曽根氏ではない。むしろ最大の敵は、我々の側に存在している。「連帯」を言葉だけでなく行動でどう示せるか、偏狭なセクト主義からいかに自由になれるか、国鉄と国労の歴史は、そんな宿題を私たちに投げかけていると言えるだろう。
中曽根氏は政界引退後、2005年11月20日の、NHKの番組「日曜討論」に出演したとき、こう発言した。「国労っていうのは総評の中心だから、いずれこれを崩壊させなきゃいかんと。それを総理大臣になった時に、今度は国鉄の民営化ということを真剣にやった。皆さんのおかげでこれができた。で、国鉄の民営化ができたら、一番反対していた国鉄労働組合は崩壊したんですよ。」。 一国の総理大臣が堂々と“組合つぶし”を告白したわけだが、野党の追及に対して、「もう引退している身なので…」と、最後の最後までうまく逃げ通してしまった。
This is a translation of “Bread & Roses: How Nakasone Crushed Japan’s Labor Movement”, written by Hifumi Okunuki, and originally published by Shingetsu News Agency (SNA).
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