労働法と一言でいっても、そのなかには、さまざまな個別のテーマがある。たとえば、賃金、労働時間、配転、人事評価、解雇、営業譲渡、労働災害などなど。そのなかでも、あまり重きを置かれていないものに「休憩」がある。労働法の体系書を見ても、「休憩」に割くページ数は、他のテーマに比べるとかなり少ない。そもそも「労働」法とは、まさに「働くこと」がメインの法律なのだから、その対極にある「休むこと」については、あまり重視されていないのだろうか? 

かつて、私の知り合いのとある研究者は、労働法学者のなかでは珍しく「休憩」を自らの研究テーマにして、せっせと論文を書いていた。ある日、その人になぜ休憩を自らの研究テーマに決めたのか、と尋ねたことがある。するとその人は、「だって俺、働くよりも休む方が好きなんだもん。好きなことを研究テーマにしただけだよ。」と実にあっさりと答えたのだった。

私はそれを聞いて、妙に納得した。たしかに、働くよりも、休む方がいい・・・それは、多くの人にとって偽らざる本音にちがいない。しかし、ただそれだけでなく、労働者が労災を引き起こすことなく、心身共に健康に、無理なく働き続けるためには、「きちんと休むこと」が絶対的に必要なのである。

そういう意味では、労働者にとって、「休憩」は、非常に重要なテーマのはずである。そこで、今回のテーマはずばり「休むこと」=労働法における休憩のあり方についてである。

労働法には、休憩についてどう定められているのだろうか。まず、「休憩」の定義とは、①労働時間の途中に置かれた、②労働者が権利として労働から離れることを保障された、 という2つの要件からなる。そして、権利として労働から離れることを保障されているか否かは、労働者がその時間を「自由に」利用できるかどうかという観点から判断するとされている。

休憩についての法規定は、労働基準法34条にある。34条は、第1項〜第3項まで下記のように定めている。

1 使用者は、労働時間が6時間を超える場合においては少くとも45分、8時間を超える場合においては少くとも1時間の休憩時間を労働時間の途中に与えなければならない。

 前項の休憩時間は、一斉に与えなければならない。ただし、当該事業場に、労働者の過半数で組織する労働組合がある場合においてはその労働組合、労働者の過半数で組織する労働組合がない場合においては労働者の過半数を代表する者との書面による協定があるときは、この限りでない。

 使用者は、第1項の休憩時間を自由に利用させなければならない。

第1項は、使用者の「休憩時間付与義務」、第2項は、「休憩時間の一斉付与原則」、第3項は、「休憩時間の自由利用原則」である。ここで気をつけなければならないのは、6時間ジャストの場合には、法律上は45分の休憩を与える必要はない。あくまでも6時間を「超える」場合なので、正確には、6時間1秒から45分の休憩を与える義務が生じる。8時間の場合も同様である(ただ実際には、6時間ジャスト、8時間ジャストでも、45分ないし60分の休憩を与えている事業場がほとんどだと思われるが…)。

労働者にとって、休憩の意義とはなんだろうか。まず第一には、労働が長時間継続すると、労働者の心身に疲労をもたらすうえ、災害が起きやすくなったり、能率や集中力が低下したりするおそれもあるので、疲労を回復してリフレッシュするということがあるだろう。だが、それだけでない。休憩とは、労働者が労働から解放されて、誰にも束縛されない自分自身の「自由の回復」を得るという、より積極的な意義も大きいと思う。

それを具現化したのが、労働基準法34条第3項の「休憩時間の自由利用原則」だ。休憩時間が、労働から解放される時間である以上、それは当然なことだといえるし、さらに、休憩の実をあげるためには、休憩時間の自由な利用を認めることが必要になる。こうした自由利用を保障された休憩が与えられなかったことによる精神的苦痛について、慰謝料(20万円)の請求が認められた住友化学工業事件(最高裁判決昭和54年11月13日)は、休憩時間中も、ずっと炉の点検監視の作業を必要とされていた化学工場で働く労働者が、これを理由とする損害賠償等を請求した事例であるが、判決文は、「休憩時間の自由利用原則を担保するためには、休憩時間の始期・終期が定まっていなければならず、特に終期が定かになっていなければ、労働者は到底安心して自由な休息をとりえないことは明らかというべきである。」と述べているが、至極真っ当であると思う。

ただし、自由利用の原則は、文字通りの自由ではなく、施設管理の必要および職場規律の維持の必要に基づく「合理的な制約」を受けることが許容されている。ここでの具体的な内容としては、他の労働者の休憩の確保や、休憩終了後の円滑な労働の再開、休憩中の事業活動の運営などが挙げられる。

これについては、休憩中の職場内でビラ配布をめぐって争われた電電公社目黒電報電話局事件(最高裁判決昭和52年12月13日)が有名である。これは、休憩時間中に、労働者が職場のなかの食堂において、「ベトナム戦争反対、米軍立川基地拡張反対」と書いたプレートを取れと使用者が命令したことに対する抗議のビラを配布したところ、就業規則違反(「職場内でビラ配布等を行う場合には事前に管理責任者の許可を受けなければならない」)として懲戒処分を受けたという事例である。

労働者は、使用者の行為は、休憩時間の自由利用原則に違反するものだと主張したが、判決はそれをしりぞけ、逆に、当該労働者のビラ配布行為は、「他の職員の休憩時間の自由利用を妨げ、その後の作業能率を低下させ、その内容いかんによっては企業の運営に支障をきたし企業秩序を乱すおそれがある。」と判断した。そして、「休憩時間の自由な利用も、企業施設内で行われる場合には、使用者の企業施設に対する管理権(=施設管理権)の合理的な行使として認められる範囲で制約を受ける。」との結論をくだしたのである。

このように、休憩時間については、自由利用を原則としながらも、いくつかの制約がある。これについては、反対意見も根強くあるが、判例も合理的な範囲において、これらの制約を認めているのが現状である。

休憩についてもうひとつ問題となるのが、「休憩時間」か「手待時間」かという争いである。労働時間は、社員が実際に労働に従事している時間以外に、労働はしていないものの、実質的に使用者の拘束下に置かれている時間も含むとされるが、それが「手待時間」といわれるものである。たとえば、夜間のビルの警備員が事務室で仮眠をとる時間、商店などでお客さんが来るまで待機している時間などが「手待時間」として認められている。手待時間は労働時間なので、当然ながら賃金が発生する。

しかし、なかには悪質な使用者がいて、実際に労働者は労働から完全に解放されず、完全な自由を得られず、何かあったときにすぐに対応できるような態勢をとらされて、長時間拘束されているにもかかわらず、「これは休憩時間だ」などと言って、その間の賃金を全く払わないといったケースがあるので注意が必要だ。

この点についての有名な判例に、すし処「杉」事件(大阪地裁昭和56年3月24日判決)がある。これは、すし店において,板前見習いおよび洗い場担当の店員に対して、客がいなかったり自分の担当業務が終わったりしたら休憩しても構わないが,客が来たら、ただちに自分の担当業務に従事するよう指示しているような場合に、使用者が「休憩時間」として賃金を支払っていなかった事例であるが、判決は、実際に仕事をしていない時間も使用者から就労の要求があれば直ちに就労しうる態勢で待機している時間は「手待時間」、つまり「労働時間」であり,労働者が権利として労働から離れることを保障されている「休憩時間」として扱うことはできず,実際に担当業務に従事している時間だけでなく手待時間を含めた時間全体が,労基法に基づく残業代(割増賃金)計算の基礎となると判断したのである。

このように、休憩という名の下に、長時間拘束して、しかも賃金を払わずタダ働きをさせるという、何とも使用者の都合の良いことがなされている場合もある。労働者は、声を大にして、「休憩くらい、ちゃんと休ませてくれ!」と言わなければならない。

きちんと休んでこそ、きちんとした仕事ができるのだから。


奥貫妃文
ジャパンタイムズのリンク

 

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